Thursday 20 June 2019
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huffingtonpost - 12 days ago

「弥助」ってどんな人? 織田信長に仕えた黒人武士の生涯を歴史資料で追った

『ブラックパンサー』で黒人ヒーローを演じたチャドウィック・ボーズマンの新作映画の報道が話題だ。織田信長に仕えたという記録が残る、黒人の武士「弥助(やすけ)」を描いたハリウッド映画が制作されるというのだ。5月7日付けのアメリカのエンタメサイト「DEADLINE」に対して、ボーズマンさんは「弥助の伝説は、世界史の謎の一つだ。アジア系以外でサムライになった唯一の存在だよ。単なるアクション映画ではなく文化事業であり、異文化交流だから、僕はそれに参加できて興奮しているよ」と語っている。果たして弥助とは、いかなる人物なのか。謎に包まれた弥助の生涯を歴史資料から追った。 ■イエズス会の宣教師が連れていた黒人奴隷だった。弥助について触れた一次資料は非常に少ない。ただ、弥助が信長の最晩年、天下統一にあと一歩まで迫った時期に宣教師の黒人奴隷として出会い、その後に家臣になったということまでは、はっきりしている。 天正9年(西暦1581年)2月23日に、イエズス会の宣教師オルガンティノが、京都で織田信長に面会した際に、黒人奴隷の従者を連れていった。これは日本側とイエズス会の報告の両方に記録がある。<キリシタンの国から黒人がやって来た。年齢は26~27歳ぐらいのようだ。全身がウシのように黒い。この男は健康で力が強く、10人がかりにも勝てそうだ。バテレンが連れてきて、(信長様に)挨拶させた(太田牛一「信長公記」)> <信長も黒人奴隷を見ることを望んでいたため、宣教師のオルガンティノが連れていったところ、信長はその色が生まれつきで、後から塗ったものでないことを信じようとせず、帯から上の着物を脱がせた>(ルイス・フロイスの報告「イエズス会の1581年の日本年報」)>そして翌1582年5月11日、徳川家康の家臣である松平家忠の日記に「信長には弥助という名前の黒人の家来がいる」という記述がある。信長が家康と組んで武田勝頼を攻め滅ぼした「甲州征伐」の際に、信長に随行していたようだ。「信長様が、宣教師から進呈されて召し抱えたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は6尺2分(約1メートル82センチ)。名は弥助(原文ママ)という」(家忠日記)これらを総合して、オルガンティノが引き合わせた黒人奴隷を信長が召し抱えて武士となった。そして「弥助」という名前を付けられたというのが定説となっている。 ■「短刀と屋敷なども与えられた」との記述も宣教師たちの記録から、初対面の出来事を補足しよう。当時、日本人にとって黒人の姿は非常に珍しく各地で人だかりができて、負傷者まで出る騒ぎになったようだ。珍しい物が好きな信長といえども、黒人の存在をにわかには信じることができなかったらしい。上半身の服を脱がせて半裸にしただけでなく、体を洗わせたというエピソードもある。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「信長は黒人奴隷の服を脱がせて体を洗わせたところ、洗い擦るほど一層肌が黒くなった」と記述している。しかし、その後、信長は、この黒人をすごく気に入ったようだ。フロイスは「黒人奴隷は少し日本語が分かったので、信長は彼と話して飽きることがなかった。また、彼が力強く、芸も少しできたので、信長は多いに喜んで庇護し、人を付けて京都市中を歩き回らせたので、『信長は彼をトノ(武将)とするのでは』という声もあった」と振り返っている。また、「信長公記」のうち、太田牛一の子孫に伝わった「尊経閣本」と呼ばれるバージョンでは、上記に続いて「黒人は信長様から家臣として召し抱えられて俸禄を得た。名前は弥助とされた。短刀と屋敷なども与えられた。時折、信長様の道具を運ばされた」とする記述がある。もし、この記述が事実であれば、信長に側近として仕えたことになる。 ■「本能寺の変」で奮戦弥助はアフリカ南部のモザンビーク出身だったと言われている。大航海時代の当時、ヨーロッパからインドに向かう船は、アフリカ南端の喜望峰を通過する際に、モザンビークに寄港して食料や飲料水の補給のほか、現地で奴隷を購入することが多かった。弥助もモザンビークからインドに運ばれたが、そこで宣教師に同行して来日していたようだ。信長が「甲州征伐」に同行させるほどの信頼を置かれていた弥助だが、その運命は暗転する。甲州征伐を終えて信長が安土城に帰還したのが1582年4月21日だった。その約1カ月後の6月2日、主君である信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれたのだ。弥助は信長の死んだ後も、息子の織田信忠が籠もる二条城に駆けつけて刀を振るって奮戦したが、最終的に降伏したという。フロイスの報告を引こう。<巡察師(ヴァリニャーノのこと)が信長に送った黒人奴隷が、信長の死後、息子の家に行き、相当長い間、戦っていたところ、明智の家臣が近づいて「恐れることなくその刀を差し出せ」といったので、刀を渡した。家臣は、この黒人奴隷をどのように処分すべきか明智に尋ねたところ、「黒人奴隷は動物で何も知らず、また日本人でないため殺すのはやめて、インドのパードレ(司祭)の聖堂に置け」と言った>明智の「黒人奴隷は動物で何も知らず」という説明は、あまりにも人種差別的だ。しかし東北大学の藤田みどり教授は著書の中で、殺さないための方便だったのでは推測している。「皮膚の色こそ異なるものの、若干言葉を解し、最後まで主人への忠誠を果たした従者を殺すのは忍びないと光秀が思ったとしても不思議ではない」 弥助は解放直後、イエズス会の宣教師から治療を受けたらしいことまでは分かっている。しかし、その後の消息はぷっつりと途絶えている。 ■サブカルチャーの世界でアイコンに歴史の世界から姿を消した弥助だったが、20世紀以降にサブカルチャーの世界で再評価が進むことになった。1968年に来栖良夫が出版した児童文学『くろ助』で主人公として描かれたほか、1971年の遠藤周作によるユーモア小説『黒ん坊』の主人公のモデルとなった。安土桃山時代を描いた漫画で取り上げられることも多く、山田芳裕が描き、アニメ化もされた「へうげもの」では、信長殺害の真犯人を目撃した重要人物として描かれている。 ハリウッド映画で、弥助の生涯がどのように映像化されるのか。今から楽しみだ。【参考文献】・藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店・ロックリー・トーマス著、不二淑子訳 『信長と弥助――本能寺を生き延びた黒人侍――』 太田出版・村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』 雄松堂出版・金子拓『織田信長という歴史―「信長記」の彼方へ 』勉誠出版


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